カテゴリー「Attitude, Style」の記事

決定と自己責任



とある検診について相談がありました

結果からいいますと
相談にきた方はとても満足していました。
検査の結果に満足しているというのではなく
その病院で検査出来たことに満足していたのです。

つまり
彼女のニーズと病院があっていたのです。

そうかと言って
この病院が誰にでも受け入れられている訳ではないのです。

人には相性や思い欲求がありますから。


ご相談を受けた場合、
私から情報は提供しますが
選択は個人に任せます。

自己責任です。

そういうと厳しいかもしれませんが
私たちは必ず自分で選択しているのです。


相手がどのレベルまで情報が消化できるのか
リサーチする能力があるのか
どんなものを探しているのか
その辺を踏まえながら
咀嚼の(噛み砕く)必要があればある程度砕いて
コーディネーターとして情報を与え
選択してもらいます。

情報は客観的に
先入観は入れないようにします。

往々にして情報伝達には
伝える人の主観的な考えが入りますので
その当たりに気をつけないと
伝達者側は責任転化されかねません。

「お母さんに言われたから仕方なく」
「先生に言われたから」そう言っても
そうしようとしたのは自分
そうしなかったのも自分ですよね。

お母さんや先生のせいにしてはいけないんです。

「ネットに乗っていた情報に惑わされた」

それを信じてしまった自分に非はないですか?
情報を正しく判断する能力に欠けていたのは
ネットのせいではありませんよね。

とはいっても社会においては
自分と相談者との力関係もありますが
(医師と患者、先生と生徒など)
本来ならば対等なはずですから
意見を求められているのか
同意を求められているのか

受ける側はその辺にも注意しながら
相談する側は情報を選択する能力を磨きながら
良いお付き合いしていきたいですね。


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急がば回れ

昨日は久しぶりにあった友人たちと
孤独と諦め
喜びと希望みたいな
いろんなモノを
さらけ出しました。


あっという間に時間は過ぎ
おしゃべりしたことでスッキリ。
笑顔で別れたけど
みんな「結構我慢して生きてるんだな」って。


今日の会議でも
「事件は現場で起こってる」的な
現在直面している問題の明確化と
それを管理する側の考え方
それぞれを踏まえた上でどうマネージメントするか
ふかーい場面におりました。


仕事を終えて山形へ向かう間
今日話し合うだろう課題の事以外にも
昨日、今日のこのやりとりについても
悶々と考えていました。

「問題の核心はなんだろう?」
「対処する方法はどんなことが考えられるだろう?」
それから
「自分の立ち位置はどこだろう?」
「自分の出来ることは何だろう?」
「自分はどうしたいのだろう?」


「私がこんなことが出来たら」
「私が代わりに○○が出来たら」
そう思って落ち込みがちだけど
やりたくたって出来ないことは急に出来るようにならないし
出来ないことを焦ったり悔やんでも仕方ない。
出来ることをやるしかない。
自分にそう言い聞かせました。




いつもは笑顔であまり不満を漏らさない人だって
たまには吠えたい時もある。
そんな時に自分に求められている事は何か
そこを外さないようにしながら
自分自身もそんなみんなに支えられている事を忘れず
苦手な事にも向き合うようにして
バランス良く行きたいと思います。




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地に足をつけているか

あれー、もう何度か書いたかもしれないなぁ。


    .
「地に足をつける」って言葉。




どんな場面に置いても
核となる大切な事って
十分に理解してないといけない。



それが分かることで
物事の優先順位が決まる。





思考は留まることを知らず
まるで∞の宇宙空間の中で
行き先を定めずネットサーフィンをしているかの様に
あちらこちらと興味の対象を変え
行ったり来たり飛んで行ったりし放題。




その傾向はきっとその人のすべてに共通していて
単純な日常生活の中のあふれる情報や出来事を
理論的に機能的に処理する事が出来なければ
その人の頭の中は
散らかりたい放題でまとまりのない状態なのだと思う。



つまりわたしはいつもそんな感じ。
情報の伝達と処理能力は早い方だと思うけれど
つい航路から逸脱してしまうのだ。


     
     

               .   
だから地に足が着いていない。

      .
だから満足できる結果が出せない。




どんな状況に置いても核となる部分を
見失わない様に注意しながら
ブレないようにしっかりと固定して
優先順位を決めて
コツコツ取り組まないとなぁ。




自分一人のcapacity(キャパ)で出来ない事を受け止めて
ある意味潔く諦めて
じっくりとやらなければならないことに
集中できるようにならないと
家庭も仕事も勉強も全部中途半端になってしまう。


頭の中のお掃除と片付けの効率的な方法
ぜひ教えてほしいものです。




ちょっと自分を見失いそうで
ボヤいてみました。

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循環させること

ふむふむ。

「大人の勉強」

なんてブログに書いたばかりですが
インターネットと言うものはなんとも危険なもので

ちょこっと調べ物をしているうちに
あれもこれも習いたくなるものです。

〈東京に研修に行きその翌日仙台でセミナーを受け
高速バスで鶴岡に戻ってくる。〉

出来ないわけではないスケジュール。

しかし、
ちょっと待ったーっ!

そんな時、
自分が提供したいと思うもの
自分が自分のクライアント(ターゲット)に必要だと思うものは
果たして今から私が学びたいと思っている事(取得する技術や知識)を
必要だと思っているのだろうか?

今日までに受けてきた研修や勉強会のおかげで
こう言った捉え方をするようになってきた。(やっと)
これまでは
自分が良いと信じるものを習ってきたし
それが社会にとって必要なものだと確信していた。

でも私の場合はINPUTばかりでOUTPUTする事が少なく
それは自分が提供しようとするサービスの幅を広げ
奥行きを深くすることを優先してきてしまったから。

費用対効果(つまり元)が取れていない事が本当の所
だから。
自分の中のポリシーとして
自分でやろうと思う事業や勉強は
自分が働いて貯めたお給料の中でまかなうことだったし
赤字にはしないということ。
それは出来てはいるのだけれど
「いつになったら自分の持っているものを活かして
社会貢献するのか?」と言う所に
自分自身ツッコミを入れたくなる。


大人の勉強は
好きでやるからこそ際限なく学びつづけるし
それは『これでお終い』ということがない分
いつまでたっても学びっぱなし。
つまりこのままの考え方では私は一生OUTPUTは出来ない。

勉強をするには第一
家族みんなの協力が必要で
かつ、時間もお金も必要だ。

例えその部分をクリアしたとしても
自己満足の勉強で終わらせないために
前述の問いにもう一度向き合う必要があるなと。


クライアントに喜んでもらうために
一日も早く良いものを形にして提供することで
社会的にも貢献できるよう
いろんな角度から
IN/OUTのバランスを取らなきゃ。
循環よ循環。
血液も氣もエネルギーも人もお金も
循環が大切。


うーむ、今回受けようとしているセミナーについて
理由がこじつけにならないよう
気をつけながら
ちょっと検討してみます。


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施術体験会を通して

ある整体師さんが
「習いたいかも」と我がセラピーを体験しにきてくれました。

彼女は玄米菜食や自然療法を実践されている
健康踏み込み型(受身型の逆)のお手本のような方です。



「周りの人を健康にしてあげたい」
そんな思いで施術を習い、実践されているそうです。

彼女のテクニックで
ひどい胃痛で他の部分にも不調が現れ
やっとのことできてくれた患者さんを
整体で直した感激の実話などを聞くと
素晴らしいなと思いますね。


自然療法を薦めるセラピストとしては
とても嬉しいですよね。

現代西洋医学ベースの病院がたくさんあっても
専門化が進み、より詳しく手技もより上達していく一方で
専門外の知識や技術が疎くなるなどの偏りが出る、
総合病院がなんでも病院になり
緊急のケースにうまく対応できないなど
現在この国が抱えている一部の医療の問題に
個人レベルで
薬や医者に頼ることなく
まずはセルフケアで、または代替医療の分野で
メンテナンス出来れば
病院は本当に必要な人に必要なだけサービスを提供出来るようになり
働くスタッフも人間的な生活の保証がされるなどの利点が生まれ
普段から気を配っているからこそ
医療サービスを受ける一人一人が
医師の診断や説明を正しい情報を受け止める事が出来る
それを実現できるんじゃないかと思うと
彼女のように知っている人から
大切に施術をしてあげることで
一人一人が健康という大切なものを手に入れられた
とても意義のあることですよね。

この整体師さんの向上心と探求心に感謝します。

大人になってからの学習意欲ですが
興味のあることをみたり聞いたり体験したり
習ったり自由に選べるのが
大人の学習の特権かなと思っています。

私も看護師としての医療の知識や現場での経験も含めて
もっと学びたいと言う意欲はおさまりませんでした。
学んだり経験を繰り返していくと疑問が出てきます。
そこに学習意欲が刺激されたわけです。

別のスクールで学んだことも
私の重要な礎になっています。
今でもまだまだ習いたいこと興味のあることは
たくさんあります。
しかし、私がこのセラピーに出会ってからは
結局このセラピーの良さを実感する事の繰り返しでした。
この整体師さんにも同じように思ってもらえればいいなと
思います。

健康は幸せの基本になります。
セラピーを受けることも健康を維持する第一歩。
セラピーを学ぶことはより深く健康を見つめる第一歩。

左右の足でしっかり歩んでいく【対】になるものと思っています。

私個人の二足歩行【対】の原点は
個人レベルの健康の推進と
誰かを支えている人を支えるその役目だと思います。

また話が反れましたが
健康や一般の悩みを抱えている方のお話を聞いたり
お話をさせていただく事もしております。

セラピーも受けたい方がいらっしゃればさせていただくし
習いたい方がいれば教えることもいたします。

気軽にお声かけ下さい。

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馴染むもの

週末に友人家族が来鶴していました。

アメリカから夏休みを利用して帰国してくるのですが
実家は東京と埼玉です。

去年は会えずでしたが

私たちが東京に住んでいた時は毎年会っていました。

今回はお天気にも多少左右されましたが

久しぶりに会った子供たちでしたがあっという間に打ち解けて

2日間たくさんのことを一緒にしました。

今朝の急行で帰るのでお土産を買いに開店を待ってお店に入ると

店員さんたちがお店の前で「いらっしゃいませ」と会釈をして迎えてくれました。

あまり開店直後に来店することはないのですが

この挨拶の儀式はどうも落ち着きません。

会釈を返すのだけれど

いちいち挨拶を返すのも何か変だし

居心地が悪くなってくる。

[日本らしい][鶴岡らしい]何かをと思って探して

何とかお土産を買って

駅にお見送りに駆けつけた。

「今度はぜひアイオワへ」と満面の笑みの友人家族

急行を見送りホッとして私たちも家に向かう。

途中開店休業と言うより廃業中のような

古いお店の入り口から老紳士が老女に頭を下げて出てくる。

老女は深々とお辞儀をして老紳士を見送っていた。

額は膝に付きそうなくらいのお辞儀で。

でもとても気持ちの良いもので

見ていて素直に「美しいなぁ」と思える日本の光景だった。

今朝の開店直後の店の挨拶とはまったく別のもの。

それとて

この老女のお辞儀を彼女達がしてもハマらない。

またこのお辞儀は私が見てきた外国のサービスにも当てはまらない。

嫌味がなく清々しく[有り難い]と言う心のこもったその礼儀は

あの年代の日本の人だけに相応する

それが故に

どんどん風化してしまっている寂しい現状のような気がする

アメリカと日本

若者と老人

西洋化したサービスと日本的なサービス

友人の滞在のおかげで

改めて様々な対比について考えた日でした。

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時間はかける

毎日かなりの量のメールのやりとりをしている
ブログもかなり時間がかかってしまう。

途中で眠くなってしまったり
寝てしまったりすることもしばしば。


そんな時「時間を決めて」とアドバイスをくださった方の
お顔と言葉が脳裏を霞めつつ
今の自分には時間を掛けて考え書くことが
大切(必要)だと思わないわけではない自分もいたりして
きっぱりと『15分で書き上げよう』
とはいかないのです  (;´▽`A``


昨日も真剣にPCに向かっていた夜
いつの間にかウトウトしていて思考が定まらない。

やっていることの重要度は低かったため
さっさとPCの電源を切って寝床に入って
うつらうつら現実と非現実の間を行き来していたとき

夫と上の娘が
「Wait a minuet I need to show this to **(私の名前)」
「Daddy, she is in bed already!」
「Doesn' matter this is a good news. **!**! Look!」
そんな風にドアを開けて入ってきた。

まっ暗い部屋に寝ている私の前にPCを差し出して見せたのは
Edinburghに住む親友に第2子が産まれたからだった。
父になったDがBabyを抱いて嬉しそうにしている。
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。..。.:*・゜゚・* !!!!!

生後6時間。
一体地球上で何番目にD&CのBabyを紹介されたんだろう?
昨日は偶然、電話魔の夫がSkypeでCallしたら
DがBabyと一緒にカメラの前に写ったらしい。
(人の妊娠経過は早いものだ)

生後6時間のBabyを見ることが鶴岡ーEdinburgh間で可能だとは。

ママのCはさすがにPCのある所までは出てこなかったが
予定日より1週間遅れたが
自宅で無事に出産し
今はゆっくりしていると言う。

めでたいNewsに私もサクッと目が覚めた。
懐かしいぃ。
Cは元気か?
上の子Sは妹の誕生をどう受け止めているか?
寝転がったままでそんな質問をした。

我が家での自宅出産が思い出された。
もう8年近くにもなる…。
確か予定日を1週間過ぎた頃の出産。


自分たちとの想い出と経験が夫をさらに興奮させ
やたらと声が大きくなっている (^-^;

「便利な世の中だぁ。」

D,CそしてSちゃん、Babyのお誕生おめでとう。
ヽ(´▽`)/

そう言って私はまたすぐに眠りに落ちた。
昨夜のこの出来事は夢か?真か?
(Skypeはビデオカメラの映像を写真として撮ることも出来るんです。
昨夜私は夫に写真を撮るように指示したはず。
ただ、このPCで撮ったのでなく別のPCでSkypeしていたので
すぐには見つからない。
それにもう眠くなってきたのであえて探すことはしない…)

真でありますように。





ツラツラ書き込んでいるとあっという間に時間が経って
今日も眠くなってしまった。
この辺で眠るとしよう(午前0時45分前)


Babyの写真は名前が決まったらUPしたい。
ともあれ めでたしめでたし。

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今年も残り半年をきって

庄内は何処もこんな感じ?なのか
鶴岡はこんな感じなのか?

子供たちがここの小学校へ入るようになって
2年を過ぎ
学校単位、学年単位、子供会単位、町内会単位
それぞれの単位でいろんな交わじり関わりがあった

上の子が2年間過ごした東京の小学校(地域)では
到底考えられないような
親と学校と地域の関わり
親同士、親と先生との関わりもある

このところ
いろんなことを抱えすぎて
身体にそのシワ寄せがきているようで
改めて優先順位を見直さないといけないと思う
(昨日今日の不調はやばかった・・・)

そんな中でも
学年PTAの長として
懇親会の運営参加などもあって
出かけてきたが

同じテーブルについたママさん達と
子供たちや学校の話しをしながら
親同士の親睦会と言うことで
自分たちの話で盛り上がった

特に関東出身の嫁の立場のママたちとは
庄内の男のどこに惹かれたのか
庄内の姑とくらしてどうなのか
庄内の隣人、同僚との付き合いはどうなのか
そんな話から
「おくりびと」などで見られる習慣の違いなど
共有すること
同じ思いをしていること
この場所が好きだということ
様々なことをはなして打ち解けた

先生と酒を酌み交わし
結構パーソナルな話題などつっこんだ話をしているママさんたちもいて
未だに私の踏み入れられない一線という物が
目の前で繰り広げられていく様は
圧倒される所ではあるけれど
アンテナの低い私には唯一の情報収集の場になったりする

この土地に住む人たちの習慣は
先生も親も地域も学校も
一緒に何かをして
一緒に酒を飲んで
労をねぎらう所から
情報交換をしたり
信頼関係に結びつけていったりするのかもしれない

会社の上司や同僚もよくお子さんの学校や部活動などに
協力、応援をしに駆けつけ
保護者同士や先生たちと飲む話をよくしている


ドライな都会とは違うウェットな場所がここ鶴岡だとすると
うまくバランスをとって
サバイバルしないと

良く考えると私は大抵真ん中にいる


だからこそ自分のオリジナリティというものが
明確になるのだが
それが良い時もあれば
頼ってくれる人たちや周りに一生懸命あわせようとしている内に
大変負担になってしまうことも多く
どんどん自分本来の生き方、選び方を後回しにしてしまい
追い詰められて体調を崩して後悔することなったりして

自分のありたい場所、行きたい所を見据えて
自分の立ち位置を客観的に判断して行動しないと
結果的には自分の出来ること、してあげられることは
長続きしないし、私自身の役割も活きてこない


自分を取り巻く環境のうねりに飲み込まれながら
自分自身を見失わず活かす方法は
現在進行形の課題
そんなことを考えていたりする

だからこそ
生き生きと自分らしく
自分の好きなこと
出来ることを一生懸命やっている人たちは
私の支えであり目標であり同志だと思って
そんな彼、彼女たちに恵まれている事に
改めて感謝してしまう

そして
「自分らしさって」
「自分のやりたいことって」
と自分探しをしてもがいている仲間も大切



6月も半ば
後半年
自分はどう変わるのか成長するのか
ゴールは出来るのか
今ここで立ち止まって考える時が来ている





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感謝と言うプラスの循環

打ち合わせ、会議、
毎晩何かしらの用事で家を空けている今日この頃

昨夜は
一年ぶりの方も含め定例会でも顔なじみのみなさん
そして経営学のプロの先生を交えた
交流会が大山でありました。

約20名のメンバーは
それぞれに熱く
美味しい食べ物とアルコールも入り
賑やかに時間を過ごしました。


庄内に越してきて丸2年が過ぎ
それを早いというか
やっとと言うか
自分的にはその両方を実感しながらも
昨夜のような形で
いろいろな場所に住み経験と実績を重ねた
様々な業種、年齢の方々と交流を持たせていただけていることは
住み慣れた東京を離れ
何も知らないこの土地に来るときの不安な時からでは
考えられなかったことです。


ただ広い交友関係があれば良いと言うものではなく
自分にとってどのように繋がっていく人達なのか
そう考えた時に
創業塾がきっかけで知り合い
創成会と言う形で継続的に刺激し合える環境は
公私共にありがたいことです。



創業塾と言う場所がきっかけではありましたが
これまでもずーっと自分がやっていきたいことは何なのか
繰り返し繰り返し考え確認し
人と人との関わりのなかで
さらに健康と幸せいう分野で
自分の満足の行く方法で生きたいと思いを強くしてきました。


激流のような世の中のうねりの中で
変わらないものがあるとしたら
私にとってそれは「感謝」の思いです。
と言うと何か歯が浮くような表現だと思いますが
誰かを想い
誰かのために何かが出来たときにいただく
「ありがとう」
その言葉がある以上
そこに自分が存在する意義が生れ
そこにプラスの循環が起こり続けるからだと思うからです。



相手の年齢も役職も国籍も関係なく
誰かのために何かが出来た達成感が
自分を動かしつづける原動力になるのです。


どんな仕事のどんな立場であれ
相手のいない人はいません。
感情のない人もいません。

大変な時には妥当な戦略も必要でしょう。
でも最終的には人を動かすのは人なのだと思います。
その両方がバランス良くとれるようになると
自分のやりたいことが自然と動き出している
そういう事だと思います。

ここに住んで
ここで知り合ったみなさんとも
今後とも人として良いお付き合いが出来
その中でお互いにプラスの循環を共有できるように
これからも楽しみながら
大切に思う誰かのために努力したいと思います。

ともあれ
良い人、良い食材と料理に囲まれ
良いお酒でした
(って、昨夜も飲んでないし…)



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検索はPC、会話はチャットで

現在子供にギア付きの自転車を買おうと
考えております。


で、ホームセンターに行ったついでに立ち寄ってみても
ピンとくる物がありません。

自転車専門店と言えど
中々みつからない。


リサイクルショップで「これは?」と思う物の
写真をパチリ。


写メでは画像が小さいので
夫に相談する際に
PCの画面を見せるのではなく
Skypeに添付して開いてもらう。


同じ家に居ながら
お互い声を出さず
別々の部屋でPCに向かい
Skypeでチャットしている


まったくもって変な環境だが
我が家は結構こういうことをしたりする。


で、けっきょく
自転車にウルサイ夫曰く
リサイクルショップの自転車は却下。


今熱心にネットオークションなどをみている様子。

年齢的にも身長的にも
今回買ったらしばらく
いや壊れるまで乗りつづけるモノになりそう

納得のいく物をみつけるのは
難しい  かな。


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考えるより動け

「考えるより動け」

私の場合
ほんとにそうです。


いろんな方に
いろんな事を
いろんな関わりの中で
伺うのですが


私を良く知って下さる方は
シンプルに(見捨てずに)
「まず動いてみたら」と
そうアドバイスをくれます。


いくら頭で考えて
シュミレーションして
予測して
準備しても

実行に移さなければ
意味のない無駄な時間になってしまう。



考える事
感じる事を
深く突き詰めると
どんどん掘り下げて
枝葉も広げて
なんの為に考えているのかと言う
本題を見失ってしまいがち。


もう習慣化したそのプロセスを
変えろといわれても
なかなか思うようにいかないものですが
春の陽気にキモチもカラダも
軽くなるこの時期こそPOPに行きたいです。




いつも
温かく見守って支えてくれるみなさん
ありがとうございます。



みんなが元気で明るく
楽しくなるように
アウトプットしていきますので
これからもよろしくお願いします。







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ただの名刺にしないために

名刺ってね


何気なくあげたりもらったりするけど



こだわる部分なんですよね
こだわる人は



内容もデザインも
フォントも素材も


で、今日思ったのは



印刷をする側の人って
内容にあまり干渉しないものなのかな?ってこと




一応仕事のために名刺を作るでしょ


内容はもちろん
名前がわかり
仕事の内容がわかり
連絡先がわかり

これが最低限の情報ですよね



で、仮に
表現の方法や誤字があった場合
受付の時とか
気づいた段階で
発注者に確認ってしないものなのでしょうか?



お金をもらって仕事をしている以上
それって大切な事なんじゃないかな?


もちろん、原案を持って行った側にだって
責任はありますけど
誰もが言葉として何かを表現する能力に
長けているわけではないわけだし


数多くの名刺を作成、印刷している側だからこそ
見つかけられる誤字だとか
不自然さだったりってあると思うんです


出しゃばりだとか
お客様に嫌な思いをさせたくないとか
そんな気をつかうなら

間違った表現(字)をしている名刺で
自己紹介をして
仕事をしているお客様はどうなるの?
って事ですよ

言われたままに何も考えず印刷するのは論外ng
原案は間違っていないのに
誤字脱字、ミスデザインで印刷するのは論外も論外down


そう言うところも含めて
お金を払う
お金をもらう
って事にお互いもっと責任を持つべきだと思うんです


こんなこと言っている私は
厳しいかな?
愚痴っぽいかな?sweat01


でも
一生懸命デザインを考えて
プリントして
ちょっと細工して
印象やインパクト、心遣いを
気にする私としては
名刺一枚にも
強い思い入れがあるんです

だからいただく名刺もじっくり見ちゃいます


そんな風に思って
受け取ってくれる人は少ないんですけどね

(一生懸命作られる方は多いと思います)


こぼれ話

福山似のある方は
私の名刺を受け取った時に
その細工に唯一気づいていくれた人でしたheart02
(本物じゃなくても素敵に見えました!)




みなさんも
名刺を頂く時
渡す時

発注するとき
印刷するとき

今までより
ちょっとだけ
慎重になってみませんか?


新しい発見と出会いがあるかもしれませんよshine




あ、内容と中身が伴わないと
恰好だけになってしまうので
ギャップが無いように気をつけましょう

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最後は笑顔で

南半球と言えば・・・

今では
New Zealandに住む友人家族
もう5年も会っていないし
連絡もほとんど取り合っていない。

その
Kiwi(ニュージーランド人)とCanadianのカップルの
彼らと出会ったのは
10年以上も前。


Kiwiの方の彼は
英国国籍があったこともあったのか
日本での仕事が終わると
イギリスに引っ越して行った。

その後偶然にも
私たちもイギリスに移った。

私たちが
Cardiff(Walesの首都)からLondonへ越した後は
わりと近所に住んでいたこともあって
上の娘をかわいがってくれたり
下の娘が産まれた時なども
お祝いに駆けつけてくれたりしたとても良いカップルだった。




私たちがLondonを離れて
LAに移った頃
彼らにも家族が増え
Londonを離れTrontoに戻ってきた。



しかし仕事がないと言ってCanadaを離れ
NZに住むつもりで
その道すがら
LAの我が家に寄ってくれた。


ちょうど上の娘がKinderの初日を迎える
記念すべき時だった。
自分たちに娘が出来た後も
相変わらず我が娘達を可愛がってくれて
ディズニーランドにも一緒に行ってくれた。
(主人は大のディズニー嫌い)


その時何を話していたのか良く覚えていないのだけれど
Kiwiの彼が

K「俺は娘を怒らないんだ。」
私「どうして?」
K「後悔したくないんだ。」
私「後悔って?」
K「それが最後に交わす言葉になるかもしれないと
思うと、自分が言ったこと、やった事に
後悔するのが嫌なんだ」

あの頃のKiwiの娘は1歳
可愛い盛りで怒る事なんて必要のない
手放しに可愛い時期。
今では弟も生まれて
もう上の子は6歳くらいのはず。
事情は変わっていると思う。

けれど

その彼の言葉は
いつも娘たちを学校へ送り出すときに
私の中に響いている。


娘たちは起きるのが苦手で
毎朝バタバタする。
それを叱りながら急き立てながら送り出す時
余裕なんてないし
笑顔なんて作れない。

でも
彼の言葉がいつも思い出されて
送り出すその瞬間だけは
怒りも苛立ちも抑えて
笑顔で送り出さないといけないと
努力(だけ)している。


いろんな事件や事故の話題を聞く度に
この思いは強くなる。


つい先日
知人のご家族が事故に巻き込まれて他界。


突然の死は
自分の生活が死について不用意なものだと思い知らせ
残された者は
大きな絶望感と虚無感、無力感に包む。


病気で徐々にその最期を覚悟している時でさえ
身内の大切な人の死は
心穏やかに受け入れられるものではないのに
朝いつものように元気に出かけて行った家族が
急に還らぬ人になってしまうなんて
誰が想像できるだろう。

残された家族や知人は
日常の些細な事に後悔をし
自分を責める、責めつづける。

やってあげられなかった事
愉しませられなかったこと
満足させてあげられなかった事
期待に応えられなかった事
(と思い込む事)で
自分を責めつづけ
延々と悲しみと後悔に包まれる。


もし
最期の関係が
喧嘩したままだったら
お互いに嫌な思いをしたまま
謝らず終いだったら
きっと自分を責めつづけるだろう。




でも
普段から
死を覚悟して生きるなんて
中々出来ることではないし
きっと目の前のしなければならない事に
邪魔をされて
焦りや不安から
怒りや苛立ちを覚え
それを表現してしまう事だろう。





でも
間違ったこと
悪いことをしたら叱るのは当たり前。

今の我が家の状況だと
たぶん、コミュニケーションのそのほとんどが
注意して、
叱って
文句を言って
そんな時間ばかり。

でもそれは仕方のない時期だとしたら
叱った後、
相手が嫌な思いをした後に
グチグチと後を引かずに
気持ちをスッパリと切り替えて
仲良くなりたいと思う。



だからと言って
悲しみが減る訳ではないのだけれど
失って初めてわかるその大切さを
失う(失わせる)前に
そう心掛けて大切な人たちと付き合っていけたらナと
思うわけです。



一期一会の気持ちで。

 


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自分が輝くと大切なひとも輝く

先日
大切なクライアントさんのお誘いを受け

ライヴに行ってきました。

なんと、ハードロック?

ライブとかコンサートとか
半世紀(つまりずーっと)行ってなかったので
行く前からドキドキ しました。


何かプレゼントしたいと思い
とりあえず(じゃないんけど)やっぱり

贈り物に花を送るのが好きなので。

でもイメージが湧かない…


店員さんに
「ロックのライヴにいくので...」
と伝えて創っていただいたのが
この花束

Flower





けっこうグロい感じ

Tuliplily と言うんだそうです。

プレゼンテーションも素敵で
自信を持ってライヴ会場に。


貰った本人も
バンド人生始めての花束に感激してくれました。

喜んでもらえると私もうれしい!





Tomohiko



 

 

 

彼の知らなかった一面が見られてよかったです。

(こう言う一面ってセラピーには結構大切だったりする)

仕事が忙しいと
ついその慌ただしさに流されて
自分を見失いがちだけど
彼のように好きなことがあること
好きなことに没頭する時間が持てること
仕事の時とは違う自分を満喫できること
素敵だと思います。
そして
とても大切だと思います。









私もつい忙しさの中で流されて
一日をやり過ごしている最近。


彼を見習って
自分の大切にしている時間を
意識的に作って
満喫したいと思います。


 

みなさんも是非
自分の好きなこと
自分が輝けること
実践してみてください。

 

そして
その喜びや満足を
私に、
大切な人達に是非分けてください。

(人が喜ぶと自分はもっと嬉しくなりますよ)

みんなで一緒にHAPPYになりましょう。

    

 

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それぞれの道、それぞれのペースで進む

誰かのために遣える

誰かのために応える

誰かのために先に立つ

誰かのために支える

それぞれの立場で
それぞれがその使命を全うすることで
社会が成り立つこと

関係を持つお互いが
互いに感謝の心を持ち
その気持ちに素直にいることで
その存在を、
自分の存在を
大切にすることが出来ること

そこに大きな愛が在ること



不確実で
抽象的で
言葉にするとしっくりこないことだけど

それが
私たち一人一人を確かなモノに
揺るがないモノに
していく


どんなに小さくても
少しでも
誰かの次でも
何かの後でも


自分の使命を見つめて
一生懸命全うすることが
自分自身を強くして
自分の大切な人たちを強くしていく


思いやりのある
感謝のある
強い社会にするために


自分が幸せになろう
大切な人を幸せにしよう



意味のない人なんていなくて

傍から見たら
効率的じゃない
建設的じゃないかもしれない
ただ回り道をしてしまう人たちも

牛のように
のっそりもっそりペースでも
自分なりに
頑張りつづけることに
意味がある

焦らず
自信を持って



自分が支えている人がいる
自分を必要としてくれる人がいる
自分が幸せにできる人がいる


誰かのためになること
何かのためになること

その使命と責任がある以上
強くなれる

惑わされず
謙虚に
でも自信を持って
『自分』は他に誰もいない


昨夜、創成会(事業者・経営者・起業志願者の集まり)の
新年会で
いろんな方のいろんな意見
生き方を聞いてきた後で

「しゃばけ」を見ながら
そんな事を思った年初でした







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選択

何人かから反響を頂いていた

決めるのはいつも自分

について補足
と言うか
ちょっと書き足したいので
今回は同じネタで失礼します


ブログの中にある
『引越し』は必ずしも居住地の引越しな訳ではなく
職場を変える
人間関係を変える
職種を変える
などなど
いろんな意味で距離を置く事です。

 

私は「看護師なんかになりたくはなかった」
心の中でいつもそう言い訳をして
嫌な世界から逃げようとした事もあります。

 

そして今だって
どんな時だって
一生懸命になれない
上手になれない
好きになれない理由を
人のせい
モノのせい
環境のせい
にしています


いつでもどんな時でも
自分が最終的に決断していると言う
事を棚に上げてです。

(つまり学びがないということ・・・悲)

 

そんな私ですが

看護師をしている時に
ICU(集中治療室)で身動きの取れない患者さん
意識のない(と思われている)患者さん
意志を表現できない患者さんにも
「選択をさせる」
事を忘れないようにと心掛けていました。

 

ICUは時間刻みでこなさなければならない事が山積み

つい
仕事の効率優先で
患者さんの思いや都合など後回しにして
モノみたいに扱ってしまう医療従事者が多いからです。
(中には家族でもそうです)

 

その人の尊厳
生きている価値を考えた時
存在そのものを無視されて
誰かの言いなりにならざるを得ない事が
どれだけもどかしく
屈辱的なことなのか
寂しい事なのか
(しかもそれすら表現できない人もたくさんいる)


自分がその患者さんの立場なら
どう思うだろう
どう感じるだろう


そう考えると
いてもたってもいられません


『選択』の例で言えば、たとえば


ラジオを聴くか聴かないか
聴くならその番組にするのか

そんな事です

 

 

呆れるかもしれませんが、
結構働いている側の聴きたい局になっていることがあるんです
年齢や生活暦、趣味などを考えても不相応なもの
患者さんにとって耳障りだと思わないのかいつも気になっていました

他には
(もちろん時間にしたらほんとに短い間ですが)
身体を拭いた後に着替えるパジャマの色は
どちらにするか
(ほんと、些細な事です)
パジャマを見えるところに持ち上げて
顔を見て質問して
考えてもらう


たとえ
その患者さんが表現しなくても
関心を持たなくても
その『選択』をしてもらうと言う行為が
無駄な事だとは思いたくないのです

「選ぶ事」は脳を活性化させることになるのだそうです
繰り返し繰り返し
脳を刺激して
早く表現してもらいたい

 

 

こんな些細なかかわりの結果はわかりません

何が良かったのか
悪かったのか
(だから先日読んだ「露のみながら」の内容は衝撃でした)


私たちは
黄色信号に変わる時
加速するか減速するか

コーヒーを注ぐ時
どこまで注ぐのか

どんな小さな事でも自分で選択している

そしてそれが自分の思い通りになっている事を
忘れてはならないと言う事

 

選択した後の責任は
「自分にこそある」ということを
自覚しなければならない

 

そう思ったからブログに書き留めて

自分を戒めたわけです。

選択の結果は
必ずしも良いものではないこと
望んだものではないかもしれませんが
そこで
どう対処していくのか


それがその人らしさになって行くのかな・・・と




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決めるのはいつも自分

毎日平穏には行かないものですね


自分で蒔いた種は自分で刈り取る

自分で蒔かなくても蒔かれてしまった種は刈り取る?

望まない芽が出たとき
拒絶反応のように
根っこから引き抜いてしまうのではなく
上手く共存できるようにしていく

あくまでも私の流儀はそれ

つまり環境に適応していく
変化していく(努力をする)




だけど
中々そうも行かない場合があるわけで
(自分が意図したようには行かない事の方が多いのかな)



そんな時は


引越しちゃう



・・・かもしれない


物質的に
その場から存在をなくしてしまう

もちろん
その決断の前には思慮して
行動もする(だろう)

でも
大きな争いにはしない


逃げると言えば逃げる事になるのかも
(植物なのに足があるのか?って

その時は飛ぶんです。流れるんです。)

でも居心地の良い
生育に適した環境があるのなら
そこへ(行けるのなら)行くのが妥当だとも言えなくはない



私たちは人と人との関係のかなで生きていて
その営みの中には
心地良いものばかりではなく
辛いものも
見たくないものも
考えたくないものもたくさんある



私たちは
生きている以上
毎日毎日『選択』している





誰かに「言われたからそうしている」のではなく
言われてその後「そうする事に決めた」のは自分だ




その事を忘れて
人やモノのせいにしてはいけない






『選択』できる幸せを噛み締めて
『選択』する責任を受け止めて


自分が成長する為に
そこで耐えるのか
吸収、変化するのか
引っ越すのか



その時にどんな手段を取るのか

その選択(結果)は
人の尺度で評価しがちだけれど
自分自身の尺度も持ちたいものですね

なんとも
深く考えさせられる一日でした

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想う事

誰かを「想っている」事
それが私の好きな事

お会いした人たちの事

折に触れて想っている
その事自体が自分の中で
とても重要で

だからこそ
お会いしたその人たちから
自分を想っていただく時
この上ない幸せを感じるのです。

仕事をしている時
誰かと話している時
電話をくださる時
メールを書いてくれる時
ブログを読んでくれる時
病院にいる時
運転してる時

彼(彼女)の限られた時間の中で
私の事を想う時間があると知る事が出来る
そんな嬉しい事はないんです。

でも
彼(彼女)らをいくら想っても
形にしていない自分がいる。

だめだなぁ。

想っている事は表現しなくちゃ。(しみじみ)

すぐに顔をみて話せる相手なら
伝わりやすい(はずだ)けど
絶対的に会えない、見えない、話せない
そんな人のほうが多いんだ。

たとえば
看護師をしていた時に
深く関わっていたいくつかのご家族がある。
みなさん高齢で
患者さん自身は亡くなられている方も。

地元にいた頃は
車を走らせ
お顔を見に行ったりして
様子を見たり見せに行ったり。
遠方の方が多く「行く」と言うだけで
喜んでくれたものだった。

患者さん自身は残念ながら入院中に亡くなられていたが
九州へ戻られた後も
お手紙を下さっていた娘さんたちもいらっしゃる。

お付き合いの長さに関わらず
いつも励まし励まされた。

あれから10年も経つうちに
私の住む場所もあちらこちら。
みなさんの疾患や年齢などを考えると
逆に気を使って連絡できないでいる自分がいる。

「手紙を書こう」
そう思いつつ
字がキレイじゃないとか、忘れられてるんじゃないかとか
もう誰も住んでいないのではないかとか
いろんな理由で便りを出さずにいる。

でもやっぱり想っている相手には

その「想いを伝える」

その気持ちの循環が大切だと思う。

私にとっては
たまに(期待していない)意外な人から
連絡が来るといつも以上に嬉しいのだから。
元気に、やる気に、勇気になる。

自分が誰かの人生の中で
少しでも生きているのだとしたら
とても価値のあることだと思う。

伝えなきゃ。
彼(彼女)たちが私にとって大切だと言う事を。

そう、今このブログを読んで下さっている
あなたも私の大切な人。

ありがとう。

 

そしてそれを伝えていけるようにしていきます。

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